全農改革の「政治的」決着について

 政府は11月29日、全国農業協同組合連合会(JA全農)の組織刷新を柱とする農業改革方針を決めた。政府の規制改革推進会議による提言に盛り込まれた事項の多くが見送られることとなった。農林部会長である小泉進次郎氏を中心に、利害関係者(自民党の農林族の国会議員農林水産省、JAの幹部)との調整が行われたからである。利害関係者がぎりぎり納得できる最大公約数的な内容といえる。

 この改革方針をめぐる賛否は様々だが、いかにも「政治的」な決着という印象を持った。しかしながら、仲正昌樹氏の『今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)』を読み、ドイツ出身で哲学者のハンナ・アーレントの理想とする「政治」とは、まったく異なるようである。
 

 仲正氏は、近代的な政治理解を次のように解説する。

近代的な理解では、政治とは、異なった利害(interest)、特に経済的利害を有する人々の間で衝突が起こらないよう調整し、その上ででみんなの共通の利益になりそうなことを公の目標として設定し、追及する営みである。

 改革規制会議の提言を受けての自民党内の議論・結論は、まさしく、以上でいうところの「政治」であった。

 しかしながら、アーレントが理想とする政治とは、利害関係やしがらみから「自由」な市民たちが、自分の利益ではなく、共同体全体にとって何がよいかを討議する営みである。そういう意味では、直接的な利害関係を有さず、また、(どこまで意見が反映されるかは別として)国民からの提案を直接受け付ける体制をとっている、政府の規制改革会議のほうがより「政治」的といえるだろう。

 

 アーレントは、このような理論を展開するにあたって、古代ギリシャアテネのポリスにおける直接民主制にその原型を求めているのである。もちろん、古代ギリシャと現代では社会構造がまったく異なるため、アーレントの理想とする「政治」は現実的ではない。しかしながら、私たちが当然のように考えている政治観に疑問を投げかけ、あるべき政治を考えるきっかけになるとは思う。

 <参考文献>

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

 

 

 

基地負担の問題の当事者はだれか

 12月21日の日経新聞の社説「円滑な日米同盟には沖縄の理解が必要だ」で、安倍政権の対話姿勢を促し、沖縄県民の反基地感情を和らげる努力をすべしと説いている。

 このような発想は確かに必要ではあるが、果たしてそれだけで十分であろうか。日経新聞の社説では、政権と沖縄県民のみを当事者とする考え方であるが、日経新聞をはじめとするメディアや沖縄県民以外の日本国民は「部外者」でよいのか。

 沖縄県に基地が集中しているのは、安全保障の観点から地政学的に重要だからという理由だけではないはずである。一般市民の多くが犠牲となった沖縄戦が本土決戦までの時間稼ぎのための捨て石作戦であったように、無意識下にある「本土」側の差別意識が根底にあるのではないだろうか。

 また、「本土」側の国民は、安全保障の受益者でもあり、沖縄県にこれだけのコストを背負わせ続けてよいのだろうか。

 在日米軍の専用施設に占める沖縄の比率が7割を超えてしまうような現状を作り出してしまった、差別意識を含めた「構造的な問題」をメディアは報じるべきであるし、「本土」側の国民もこの点を意識して、沖縄県民の基地負担の問題を考えるべきではないか。決して「対岸の火事」ではない。

「全体国家」論の現代日本への警告

 行政ニーズの多様化・高度化が進んでいる。東京都のホームページにおいても、以下のような記述がある。

行政の提供する公共的なサービスは、非市場性を本質とするものとされ、公共の秩序維持や安全の確保から、福祉サービスなど各種サービスの供給に至るまで、行政が広範な役割を担ってきた。

【出典】http://www.soumu.metro.tokyo.jp/03jinji/hakusyo01.html

 もともと広範な役割を担っていた行政は、市民のニーズの多様化・高度化により、さらにその役割を拡大化しているところである。行政の役割の肥大化傾向の是非について論じることはできないが、ドイツの政治学者・公法学者で、全体主義的国家論を提唱し、ナチスに理論的基礎を与えたカール・シュミットの議論が参考になる。

 シュミットの議論では、民主主義的な議会制度のもとでは、諸党派と経済的利害関係者によって支配されている。その結果、国家は社会生活のあらゆる局面への介入とあらゆる私益保護とを要求される「全体国家」へと堕落していく。ここでいう「全体国家」とは、国民生活全体を支配する強力な国家ではなく、社会の様々な雑多な要求をすべて考慮せざるをえない弱々しい国家である。

  

 行政サービスのスリム化できる余地はまだあるだろうし、すべきであろうが、行政の肥大化と国家の「力」が反比例していく関係にあるという指摘は新鮮であった。昨今の財政状況を考えれば、限りある資源の「選択と集中」がより一層必要であることはいうまでもない。

<参考文献>

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

 

 

「保育園落ちた日本死ね」の発言と丸山眞男

  2016年のユーキャン新語・流行語大賞が発表された。その中の一つとして「保育園落ちた日本死ね」が選ばれたことについて、賛否両論を呼んでいる。

【出典】新語・流行語大賞

 例えば、この言葉の受賞について、つるの剛士さんがTwitterで「悲しい気持ち」になったと表明。多くのリプライが寄せられている。

 

 表現として確かに「汚い言葉」であるし、しかしだからこそ、育児を抱える人達の悲痛な叫び声として注目を集め、「大きな社会問題を現出させた」(選考理由)たのであろう。賛否両論あるのは致し方と思うが、以下のような丸山眞男『日本の思想』の指摘を踏まえると、非常に高く評価されるべきだと思う。

周知のように、日本では私たち国民が自分の生活と実践のなかから制度づくりをしていった経験に乏しい。歴史的にいっても、たいていの近代的な制度はあらかじめでき上がったものとして持ち込まれ、そのワクにしたがって私たちの生活が規制されてきたわけです。それでおのずから、まず先に法律や制定の建て前があってそれが生活のなかに降りてくるという実感が強く根を張っていて、その逆に、私たちの生活と経験を通じて一定の方や制度の設立を要求しまたはそれらを改めていく発想は容易に広がらない。

  今回の「保育園落ちた日本死ね」の発言は、丸山が求めていた「私たちの生活と経験を通じて一定の方や制度の設立を要求しまたはそれらを改めていく発想」であろう。丸山が存命であれば、高く評価したのではないか。

<参考文献>

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

 

 

トランプ氏による台湾総統の「呼び方」について

 12月2日、トランプ氏が台湾総統である蔡英文総統と電話会談した。電話会談自体が「一つの中国」の原則を掲げる中国を刺激するものであるし、日経新聞が論じているとおり「台湾を国家として認めない中国をけん制」する目的があるのだろう。

www.nikkei.com

【出典】 「トランプ氏、中国けん制 台湾総統と電話協議 」『日本経済新聞』2016年12月4日

 

 電話会談をめぐる一連の出来事で興味深かったのは、電話会談後のTwitter上でトランプ氏が蔡英文氏を「The President of Taiwan」と呼んだことである。「台湾の総統」という言い方に注目したい。ここで思い出されるのは、2015年11月7日の中台首脳会談における中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統それぞれの呼び方である。

国営通信社の新華社は「会談時は互いに『先生』(日本語の「さん」に当たる)と呼ぶことが双方の協議で決まった」と報じた。台湾を中国の一地域としている以上、習国家主席が馬総統を「総統」と呼ぶことは難しい。そのため、双方とも一般的な敬称である「さん」を付けて、「習さん」「馬さん」と呼ぶというわけだ。互いをどのような敬称で呼ぶかを協議するのは滑稽とも言える一方、中国と台湾の66年にわたる分断の歴史を物語ってもいる。

business.nikkeibp.co.jp

【出典】「中台首脳会談、呼び方は「習さん」「馬さん」で」『日経ビジネスオンライン』2015年11月5日

 

  トランプ氏と蔡英文氏の電話会談にあたっては、政権のブレーンとも相談の上でのことであろうし、昨年の中台首脳会談における呼び方のことも念頭にあったかもしれない。そうであれば、トランプ氏が「The President of Taiwan」と呼んだことは、スパイスのきいた、うまい「皮肉」であると思えてくる。

 

天皇陛下の生前退位に関する世論調査の意味について

 12月2日(金)の日経新聞の社説「退位論議の集約に知恵絞れ」を読んで、以下の文章に強い違和感を覚えた。

忘れてはならないのは、各種の世論調査で、国民の多くが特例法よりも典範改正による退位の恒久制度化を求めている事実だ。この点も検討の材料のひとつとして浮上しよう。

 世論調査の結果を「検討の材料のひとつ」とするべきという考え方である。しかしながら、有識者会議におけるヒアリングが一通り終わったばかりで、論点整理もなされていない段階での「世論」にどこまで意味があるのだろうか。各種メディアの世論調査に回答した国民は、この問題に関する知識をどれほど有し、深く考えたのであろうか。

 有識者としてヒアリングを受けた、歴史や憲法の専門家の間でも見解が分かれ、論点も多岐にわたる。有識者の見解もそれぞれに説得力があり、わたしには、どのような選択がベターなのかわからない。

 憲法第1条にて天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」ものと規定されており、「日本国民の総意」が重要であることは言うまでもないし、「日本国民」として問題への理解を深めようとしなければならない。しかしながら、現時点の世論調査は無意味であるし、万が一議論の方向が世論に影響されるのであれば、有害であるとさえいえるのではないか。

 

Not My President に込められた思い

「Not My President(わたしの大統領ではない)」


 米国大統領選の結果、トランプ氏が勝利し、次期大統領となった。この選挙結果に反発して全米各地の都市で抗議デモが起こり、数万人規模の人々が街頭で「反トランプ」を叫んでいるようである。

www.newsweekjapan.jp

 そのスローガンの一つが「Not My President」である。日本語で言えば、「わたしの大統領ではない」であるが、このメッセージに込められた思いは、どのようなものであろうか。人種差別発言を繰り返し述べるなど大統領としての資質に欠けるトランプ氏への怒り、トランプ氏を弾劾し、早期の辞任を求める思いなどであろうか。

 「Not My President」というメッセージの背景には、米国独特の大統領の位置づけがあるように思える。『そうだったのか!アメリカ』の池上氏の言葉を借りれば、米国大統領は「国家元首であり、行政の最高責任者(連邦軍の総指揮官でもある)であると同時に、アメリカ国民統合の象徴」なのである。

 抗議デモに参加した個々人を含めた「アメリカ国民」を代表するものとして、トランプ氏はふさわしくない。だからこそ、デモ参加者は、「Not My President」というメッセージを掲げるのではないか。

 

<参考文献>

 

そうだったのか!アメリカ (集英社文庫)

そうだったのか!アメリカ (集英社文庫)